高橋源一郎+柴田元幸 『小説の読み方、書き方、訳し方』

村上春樹カート・ヴォネガットならば、高橋源一郎ドナルド・バーセルミではないか」という柴田元幸のフリからはじまる、現代ニッポンと海外(アメリカ)の「文学」談義。「小説で書くことがない、というのは作家が言わない本当のことの一つ、というか、もっとも大きな一つです」(高橋)という告白に、高橋文学(そんなものが仮にあったとして)の終焉が露出している。
 
 ジョン・バースの定義によると、ジョイスベケットの作品のように小説の技法的革新を「信じること」がモダニズムであり、それが極限にまで至ったものがハイモダニズム(一種の悪口)だそうだが、中上健次没後の「ニッポンの文学」(中原昌也町田康古川日出男など。あるいは小島信夫の『残光』の壊れ具合について)は、その意味でハイモダニズムの最先端を走っている(アメリカがそれにようやく追いつきつつある)という二人の認識が面白い。
 
 ポール・オースターをはじめ、ミルハウザーエリク・エリクソンブコウスキーなど、90年代の海外翻訳文学(アメリカ文学)はあたかも「柴田元幸の時代」であったかのような感を呈している。『ボルヘス・コレクション』『重力の虹』『カフカ小説全集』『失われた時を求めて』『ナボコフ短編全集』『フィネガンズ・ウェイク』を未読の書と告白しているが(この部分の対談初出は『文學界』2002年12月号)、今春刊行予定(?)の新潮社『ピンチョン全集』では、柴田が「メイスン&ディクスン」を訳すとのことなので、刊行を今から楽しみにしたい。
 
 ただ、同時に購入した高橋源一郎大人にはわからない日本文学史』 は本当にわからない、というか、58ページまで読んで遂に放り出してしまった。樋口一葉からはじまって、綿矢りさ樋口一葉綿矢りさ。この後、赤木智弘石川啄木と続いて穂村弘。「21世紀の現代短歌が到達した表現の典型」だという、中澤系の短歌「3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって」「牛乳のパックの口を開けたもう死んでもいいというくらい完璧に」(そのうち「かしこ かしこまりました かしこ」を「世界に遍在するコミュニケーションの不可能性と『私』への徹底的な懐疑に貫かれた対話型独白形式の極北」とか何とかいって、ハイキングウォーキングゴンブローヴィッチとサミュエル・ベケットあたりを比較研究した批評が立ち上がりそうで恐ろしい)。…それから本書は川上未映子平野啓一郎を経て、また綿矢りさ、それから「恋空」。とってつけたようにサイードが挟まり、志賀直哉太宰治、そして耕治人で終わる。はっきり言って、『三たび、綿矢りさ』とかいう書名で上梓してくれればよかったものを。ネットで書籍を購入することの「命がけの飛躍」と「千年紀的絶望」が、ここにはある。