村上春樹 『アンダーグラウンド』

 …まず想像していただきたい。
 ときは一九九五年三月二〇日、月曜日。気持ちよく晴れ上がった初春の朝だ。まだ風は冷たく、道を行く人々はみんなコートを着ている。昨日は日曜日、明日は春分の日でおやすみ――つまり連休の谷間だ。あるいはあなたは「できたら今日くらいは休みたかったな」と考えているかもしれない。でも残念ながらいろんな事情で、あなたは休みをとることはできなかった。
 だからあなたはいつもの時間に目を覚まし、顔を洗い、朝食をとり、洋服を着て駅に向かう。そしていつものように混んだ電車に乗って会社に行く。それは何の変哲もない、いつもどおりの朝だった。見分けのつかない、人生の中のただの一日だった。
 変装した五人の男たちが、グラインダーで尖らせた傘の先を、奇妙な液体の入ったビニールパックに突き立てるまでは……。

(「はじめに」)
 
 
 その日も、ぼくは普段どおり、御茶ノ水にある小さな会社に出勤する途中だった。ただし交通経路は地下鉄ではなく、JR。そして時刻は9時30分過ぎ……。地下鉄で「大規模な火災」が発生したという。千代田線? 丸ノ内線? あるいは日比谷線?…… 東京の空を、ヘリコプターがぶんぶん飛び回っていた。当時、インターネットが――あるいは携帯電話が今日のように普及していたら、風景はもう少し違って見えていたかもしれない。巨大な悪意が日常の中でぱっくりと口を開け、世界は変わったと、本気で信じた。その日以来、ぼくはしばらくの間、ターミナル駅地下の通風口の前を横切るのが怖くなった。祖母が焼け出された阪神・淡路大震災の発生からおよそ2カ月――誰もが程度の差こそあれ、いわく言い難い、得体の知れない・深甚とした恐怖に身を竦ませていた。