ジョアン・ミロ 《農場》 母なる大地への追憶の詩 / 木村重信

 もとより、昔から絵画は何らかの意味で記号の世界であった。レオナルド・ダ・ヴィンチが《モナ・リザ》を描き、P・セザンヌがサント=ヴィクトワール山を描くとき、その人物や山の形象はひとつの記号であった。しかしこれらの絵画は、何物かに対する記号であった。そしてレオナルドやセザンヌはその記号を描いたのである。ところが現代画家の多くにとっては、物よりも先に記号がくる。つまり、以前には記号はつねに事物を対象としてかりだされた。物が先にきて、その物を指示するための記号があとからうまれた。ところが現代では記号が先にくる。目的性はもはや問題とならず、作品は質問の幾何学的な軌跡となる。つまり、かつての現実を指示する記号世界から、現実そのものである記号世界へ移行したのである。
 (略)ポロックは額縁をとりはらうことによって、自由空間として自立する絵画ではなく、現実の生活に直接的に干渉する絵画をつくった。ハロルド・ローゼンバークの言葉を借りれば、カンヴァスの上には「ペインティング(絵)」ではなく、「イヴェント(事件)」の網の目が形づくられたのであり、このとき「描く」という行為は「生きる」ことと同義となった。 (木村重信「額縁を追放した絵画」/『名画への旅24 「絵画」を超えた絵画』)
 
 ヘミングウェイは、どの画商も買おうとしなかったジョアン・ミロの大作『農場』を見て感嘆し、5000ドルという、当時の作家にとっては破格の価格で強引に買ったという。遠近法や解剖学の知識を持たないカタルニア中世プリミティヴ・アートの影響を強く受けた作品群、あるいはシュルレアリスム運動に傾斜し、ビオモルフィック(生命形態的)とも評される対象への徹底した記号化が衝撃的な『母と子』など、現代絵画の反=人間主義は鑑賞者をいわれのない不安に淵に陥れる。
 
《鳥の翼から落ちたひとしずくの露が蜘蛛の巣の陰に眠るロザリーの眼をさます》 ――A・ブルトンが『ナジャ』の想をねり、L・アラゴンが『文体論』を書いたノルマンディーのヴァランジュヴィル・シュル・メールにて
 
《恋人たちに未知の世界を明かす美しい鳥》
 
トリスタン・ツァラ
 
スペイン内乱。当初、フランシスコ・フランコ将軍を支持していたダリ。パリへの脱出と帰国。「彼は日和見的な画家だったのか?」
「現在の戦いにあって、私はファシストの側に時代おくれの暴力を、反対の側に、創造的な無限の資源を持って、スペインを飛躍させようとする人々を見る。この飛躍は人々を驚かせるだろう」(ミロ《スペインを救え》)
 
「線や色彩の遊びでも、もしそれが創造者のドラマを露わにするのでなければ、ブルジョアの気晴らし以外の何物でもない」