電子作家の肉筆

安部公房の手紙発見 埴谷雄高に「相変らず金缺病」(www.asahi.com 2009年1月18日3時2分)

 十七回忌を22日に迎える作家、安部公房(1924〜93)の文壇デビューの頃の書簡が見つかった。作家の埴谷雄高(はにや・ゆたか、1909〜97)に、自作を売り込んだり、もらった靴の礼を述べたりしている。のちにノーベル賞候補といわれる天才作家の若き時代の貧乏生活と、それを陰で温かく支えた先輩作家との交流を伝える資料だ。
 
 埴谷の関係者から神奈川近代文学館横浜市)に寄贈された資料にあった。「安部公房全集」(新潮社)の3月刊行予定の最終巻で初めて活字化される。
 埴谷あての書簡は計19通。第1信(47年)は封書で、原稿用紙2枚にマス目よりやや小さな文字で丁寧につづっている。
 埴谷と知り合いだった高校の恩師が書いた紹介状を同封し、埴谷に会いに行ったが会えなかった旨を記し、「出直ほしてお伺ひするのが礼とは思ひましたが、いさ々か金に窮して居りますので、一寸(ちょっと)家から離れる事が出来ないのです」と釈明。
 その上で自作の小説について「別便にて」「お送り致します」とし、「若(も)しお認め下さいましたら、何よりも嬉(うれ)しく思ひます」と訴えている。
 この小説は、安部が大学ノートに書いた「小説 故郷を失ひて」で、これを読んだ埴谷は称賛し、雑誌「個性」に推挙。「終りし道の標(しる)べに」と題して掲載された。
 その後はすべてはがき。靴が泥棒に盗まれ、埴谷から贈られたことにお礼を書いたり(49年)、「相変らず金缺(きんけつ)病」(50年)とつづったり、芥川賞を受賞した51年ごろまで経済的な困窮が続いたことがうかがわれる。
 
 また、小説「砂の女」(62年)をもとに安部が自ら書いた映画用の物語「砂の女(映画のための梗概=こうがい)」も見つかった。実現しなかった日米合作映画のために書いたもので、砂の穴の中の家に閉じこめられる主人公を日本人から米国人に変えている。映画「他人の顔」で、採用されなかった別バージョンのシナリオも発見された。
 
 文芸評論家の三浦雅士氏は埴谷あて書簡を「安部にとって、埴谷は生活上の心配をしてくれる温かい先輩で、ありがたい存在だったことがよく分かる。必ずしも人づきあいが得意でなかった安部と文壇の作家たちをつなぐ役割も埴谷はした」と分析。映画「砂の女」の梗概についても「安部が主題に迫っていく方法を解き明かす貴重な資料だ」と評価している。
 

 サイトに紹介された画像では詳細は分からないが、一枚は200字詰め原稿用箋にブルー・ブラックのインクで書かれた埴谷雄高宛の第1信、それからやはりブルー・ブラックの万年筆で横書きに近況を綴ったハガキ。埴谷も(またその関係者も)よくぞ今までこうした私信を保管していたものだと思うが、(昔の)文学者ほほんとうによく手紙や日記を書いていたものだ、と感心する。
 たいていの個人全集には別冊として日記や書簡集がついてくるし(漱石日記や「断腸亭日乗」などはもはや文学作品で、かと思うと突如思い出したように徳富蘇峰の「終戦後日記」などが出版される)、太宰治の書簡など、「愛と苦悩の手紙」(亀井勝一郎・編)という、作者が身悶えしそうなくらい品のないタイトルで文庫化までされてしまうのが凄まじい(だが、極めつけの書簡集といえば、やはりフランツ・カフカにとどめを刺すか?)
 

終りし道の標べに (講談社文芸文庫)

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