丸谷才一さん死去 文学の質向上へ一心

丸谷才一さん死去 作家・評論家・英文学者、87歳 (www.asahi.com 2012年10月13日21時00分)
 
 小説「女ざかり」や、英文学の翻訳、幅広い文芸評論で知られた作家、評論家、英文学者で文化勲章受章者の丸谷才一(本名 根村才一)さんが、13日午前7時25分、心不全のため都内の病院で死去した。87歳だった。葬儀は近親者のみで行い、後日、お別れの会を開く。
 
 山形県鶴岡市生まれ。東京大英文科卒業後、国学院助教授として教えながら、1960年に最初の小説「エホバの顔を避けて」を刊行した。65年に退職。
 
 68年に「年の残り」で芥川賞。72年の「たった一人の反乱」のあと、82年「裏声で歌へ君が代」、93年「女ざかり」、2003年「輝く日の宮」、11年「持ち重りする薔薇の花」と、ほぼ10年おきに長編小説を発表、谷崎潤一郎賞読売文学賞など数々の文学賞を受賞した。また「樹影譚」で、川端康成文学賞。03年度に朝日賞。
 
 王朝和歌集や源氏物語の知識も深い。日本文学の中心に和歌の伝統をすえ直し、四半世紀かけて秀歌を選んだ「新々百人一首」で00年に大佛次郎賞を受けた。ほかに評論「忠臣蔵とは何か」「恋と女の日本文学」など。旧仮名遣いで執筆し、「日本語のために」などの日本語論もある。
 
 ジェイムズ・ジョイス学者として、代表作「ユリシーズ」を共訳、「若い芸術家の肖像」は、09年、4度目の改訳に新たな解説を加えて刊行した。すぐれた書評家としても知られ、「週刊朝日」の読書欄、92年からは毎日新聞書評欄の中心となっていた。朝日新聞では04〜07年にエッセー「袖のボタン」を連載していた。
 
 91年にはデニス・キーン英訳「横しぐれ」が英国のインディペンデント紙外国小説特別賞を受賞した。
 
 今年4月に心臓を手術し、その後退院して自宅で療養していたが、今月7日に倒れ、再び入院した。
 
 
文学の質向上へ一心 丸谷さん、ウィットとユーモア愛す (www.asahi.com 2012年10月14日03時00分)
 
 13日に亡くなった丸谷才一さんは、自分の原点として「不思議と思うことを大事にしてきた」と語っていた。英国流のウイットやユーモアを愛し、私小説的な日本文学の体質を変えるため、戦い続けた人でもあった。
 
 子供のころは、日中戦争のさなかに米国と開戦すると聞き「なぜ大国と戦争するのか。日本は不思議な国だ」と思っていたという。
 
 初期の「笹まくら」(1966年)では徴兵忌避者だった大学職員、2003年の「輝く日の宮」では国文学界に異論をぶつける女性研究者と、権威や権力と向きあう主人公を書いてきた。自ら「風俗小説」と名乗るように、明快でしゃれた文体だった。
 
 旧制中学時代の「新古今和歌集」を手始めに、古典への学識を深めた。日本では紫式部以外に手本になる作家はいないと言い放ち、英語圏の小説を翻訳することで、自分の文体を作った。ジェイムズ・ジョイスの「若い芸術家の肖像」は69年に邦訳、その後も3度も改訳した。
 
 書評の名手としても名高い。昭和20年代に英国の雑誌の書評欄を読んで「力がみなぎって上手な文章で充実していることに仰天した」。週刊朝日毎日新聞の書評欄をプロデュースし、日本の書評の質を上げたことを「自慢してもいいこと」と話していた。
 
 風刺とユーモアの利いたスピーチも、聞き応えがあった。「経済人や政治家のあいさつがひどいのは、日本の文化程度がダメだから」。スピーチ集も刊行されている。
 
 11年に文化勲章を受章した際の会見で、福島第一原発の事故にふれ、「戦争前とちがって今の日本では大概のことは何を言っても大丈夫なのに、あんな事故が生じる国を作ったのは問題だ」と強く批判した。
 
 「小説も評論も腹案が二つ三つある。現役の作家で死にたい」ともらしていた。音楽評論家の吉田秀和さんが亡くなった今年5月、朝日新聞に追悼文を寄せた。体調を崩し入院していたが、依頼した翌日、吉田さんの功績と人柄を尊ぶ文を書き上げた。古い記憶も正確だった。病室には、まるで書斎のように本や筆記用具を備え、原稿を受け取った記者に「また、何か書こうか」と応えるなど、執筆意欲は衰えていなかった。
 
 追悼文の題は「われわれは彼によって創られた」。その言葉は、丸谷さんにもふさわしいものだった。