エリスから遠く離れて

「気性合わず」森鴎外の離婚のいきさつ明らかに (www.asahi.com 2012年9月13日20時06分)
 
 「まったく気性が合わず」――。明治、大正期の文豪・森鴎外と最初の妻登志子の離婚のいきさつが記された文書が見つかった。静岡県磐田市教育委員会が13日、発表した。鴎外研究家は「今までよく分からなかった部分に光が当てられた。鴎外の苦しみがよく分かる」としている。
 
 鴎外(本名・林太郎)は陸軍軍医としてドイツ留学から帰国した翌年の1889(明治22)年、海軍軍人・赤松則良の長女登志子と結婚し、東京で暮らした。長男の於菟(おと)が生まれた年に離婚。結婚生活は2年に満たなかった。
 
 文書はそのころ、登志子の兄の範一が則良に宛てた手紙の下書きとみられる。和紙6枚に毛筆書き。鴎外が親戚の思想家西周に語った内容などを伝えている。西の妻から聞いたらしい。
 
 現代語訳だと、鴎外の言葉として「まったく登志子と気性が合わず、日ごろ一緒に外出遊歩することもなく、文筆活動の妨げともなります」「わたくしが(平素、登志子の)機嫌を取っていましたならば、(別居は)なかったでしょうが、到底わたくしの気性として出来がたく」とある。また、鴎外が「到底陸軍に職を奉じて一生を終わるとも思われず(略)」などと語ったと紹介する。
 
 鴎外は於菟を登志子に任せたまま家を出たが、やがて於菟を引き取った。その経緯を範一は「(鴎外に)新生児は引き取ってくれますよう、いろいろ強く話しましたところ、(鴎外の母も)承知しましたが、林太郎とも相談のうえ、牛乳で育てても無害であるので、引き取ると申されましたうえで引き渡しましょう」と記している。
 
 文書は範一の孫にあたる赤松乙彦氏(68)の磐田市の生家に保管されていた。地元の鴎外研究家、杉本完治さん(68)は「鴎外はドイツの留学で自由結婚の様子を知った。自分は両親の意のままに結婚したことに気付き、結婚生活に苦しんだのではないか」と話す。
 
 文書は15日から10月14日まで、同市の旧赤松家記念館で展示される。問い合わせは同館(0538・36・0340)へ。