竹田青嗣 『21世紀を読み解く 竹田教授の哲学講義21講』

 精神の独自の運動(弁証法的運動)こそが精神の存在本質で、それをヘーゲルは「自由」と呼ぶ。(略)この精神の運動が、個別的な精神と、自然とを作り出している。また個別的精神のせめぎ合いが、人間の「歴史」の根本動因になっている。世界史は、精神のせめぎ合いによって運動してゆくけど、最終的には、その中で精神の本質が徐々に自らを実現してゆく。ヘーゲル「自由の相互承認」p.164)
 
 言語の意味はルールによって規定されているはずなのに、言語行為から言語のルールを厳密に取り出すことはできない。ルールのほうがむしろ言語の使われ方(用法)によって規定されている。ヴィトゲンシュタイン言語ゲーム」p.292)
 
 「誤解」ということは、人間の言語ゲームが信憑構造であるために、人間どうしのコミュニケーションでは本質的なものなんだ。 (同、p.294)


 プラトンからハイデガーまで、西欧を代表する16人の哲学者の思想を歴史的に俯瞰しながら、哲学という学問がいったい何を中心問題として措定し、それに対して各時代の哲学者らはどのように思索してきたかのかを辿る仮想講義録。
 
 本書にも言及があるように、分析哲学ホワイトヘッドが「西洋哲学の歴史はプラトンの脚注に過ぎない」と語った(『過程と実在』)のは有名な話だが、著者によれば、近代哲学はデカルトのために「不幸の運命」を進むことになったという。確かに、近代哲学の主流は基本的に「コギト」の原理、「つまり『自我』『意識』『観念』から出発せよという考えが生きていた。それはいま、あまりよくない意味で『観念論』と呼ばれている。でも、わたしにいわせると、近代哲学の『観念論』は基本的に正当性がある」(p.57)。ここからの著者の哲学解釈、「反哲学」「論理相対主義」批判は平易、明快で揺るぎがなく、面白い。