仏のおわします感覚

仏に親しむ、仏に学ぶ 松岡正剛 (どらく http://doraku.asahi.com/
 
■天変地異を身にまとって暮らす日本人
 
―― 日本人と仏教の関係に、このたびの大震災は影響を与えたでしょうか。
 
火山列島の日本には地震津波も台風も襲ってきます。しかも、建物は石でなく木と紙で造られてきたからすぐ壊れるし、すぐ焼けます。で、また造り直す。大小さまざまの天変地異を半ば身にまとって日本人は暮らしてきたわけですね。
そういう国の仏教は、大陸の風土に沿うインドや中国とは異なって当然でしょう。例えば幾重もの災難をくぐり抜けた仏像などは、本来あった金物が落ち、木がほつれ、彩色があせていても、それほど過酷な歴史の中で私たちを見守り続けてくれたのだという感慨を、観る者に抱かせます。
 
―― 災害の苦しみからの救いが、日本では仏教の主要な目的たりえたと。
  
鎮護国家仏教として渡来したそもそもは、都の大きな寺で修行僧たちが国の安泰を祈願しました。中世以降、漢文の経典が仮名で読めたり、仮名法語が普及するようになると、誰でも念仏を唱えたりしながら仏の救いを求めるようになった。つまり「祈りの仏教」から「救いの仏教」へ、修行を通じて確信する仏教から、一人ひとりが身近に携える仏教へと変遷していったのです。私の言葉で言うと、仏教の「ポータビリティ」が高まって、人々が災害に見舞われた際も、それぞれの胸の内、心の中に仏がおわす感覚を持てるようになったのだろうと思います。
 
■どんなことも起こり得るという無常観
 
―― 今の時代は、その感覚からむしろ遠ざかってしまっているのでは?
 
現代の日本人は「有事」ということを大仰に捉えますが、実は、有事は平時の中に埋め込まれているのです。昔の人はよく、家の中にいても表が妙に騒がしいとか、今日の風は変に生ぬるいとか、有事の前触れを察知するような感性を備えていました。武道家もつねにそうした気配の変化を察知する訓練をした。ところが、今の人たちは、賞味期限切れだから食べたら危ないとか、マグニチュード3なら大したことないとか、誰かのお墨付きやレベル設定がないと危険か安心かの判断がつかないようになってしまった。そういうものが、自らの内に仏がおわす感覚の喪失と相まって、この時代を追いつめているのでしょうね。
(後略)