哀悼のオオカミ念仏

東本願寺の坂東曲 朗々 魂揺さぶる咆吼 (www.asahi.com 抄録 2011年5月21日)
 
 JR京都駅に近い東本願寺千畳敷きのお堂を4千人の門徒が埋め、厨子に手を合わせる。平安から鎌倉の世、疫病や貧困にあえぐ人びとに仏の道を説き、浄土真宗の宗祖となった親鸞の像が、その奥に鎮座する。
 薄い小豆色の法衣をまとった18人は儀式を専門とする堂衆、うぐいす色の64人は準堂衆だ。82人の僧は向かい合って正座し、一斉に畳に向かって頭を振り下ろした。
 
 「なあー」。群狼の咆吼に例えられる遠ぼえのような声が、境内の外にまで響く。頭は畳をなめるように左へ。「むー」。今度は勢いよく右へ。「ああー」。面を上げ、すぐさま左下へ。「みー」。再び右へ。「だああー」
 体を激しく揺さぶり、南無阿弥陀仏と大声で唱える「坂東曲(ばんどうぶし)」。この念仏を唱えれば、だれでも極楽浄土へ往ける――。親鸞はそう説いて仏教界の反発を招き、新潟へ流罪となった。坂東曲は、その船上での姿を再現したものともいわれる。
 
 例年は親鸞の命日の11月28日、遺徳をしのぶ法要「報恩講」の最終日のみ営まれてきた。だが、750回忌の今年は、4、5月の月命日の28日にも特別に披露されている。
 戦国の世、京の町衆は「本願寺のオオカミ念仏」と揶揄した。大震災を経験した今、地をとどろかせる念仏は哀悼歌のようにも聞こえる。
 
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 坂東曲はいつ始まったのか。
 
 本願寺第3代の覚如室町時代に書き残した「改邪鈔」によると、当時、坂東と呼ばれた関東地方から京都を訪れた門徒たちが「お国なまり」で念仏を唱えたという。体を大きく揺らす動きから、親鸞と同時代を生きた一遍の「踊り念仏」の影響とみる研究者もいる。教団の記録では、遅くとも約500年前の戦国時代には坂東曲が姿を見せている。
 
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 親鸞は90歳で亡くなるまで、和讃を次々と編み出した。当時の貴族社会の流行歌「今様歌」が七五調で広まったのに似て、「ナムアミダ」の繰り返しに続く七五調は、難解な仏典の教えを民衆に浸透させるのに効果的だった。今の歌謡曲のように広まり、万人救済を説く親鸞の願いがここに実を結んだ。