福田和也 『教養としての歴史 日本の近代(上)』

 「自由」という言葉が変容するのは、明治五年に中村正直がJ・S・ミルの『On liberty』を『自由之理』と題して訳してからのことです。
(…)けれど、元来積極的な意味を日本語の文脈において持つことがなかった「自由」という言葉をその訳語としたのは、「日本の近代における自由・自由主義にたいする評価に微妙な影響を与え続ける結果になっている点は見逃すわけにはいかない」と、網野善彦は指摘しています。
(p.83)
 
 保守論客として知られる著者が、広く一般向けに物した「物語としての近代史」。上巻では近代の始まりとしての「江戸時代における思想史の転回」(官学としての儒学から伊藤仁斎荻生徂徠による朱子学の読み直し=権威性の批判=を経て、賀茂真淵本居宣長らによる国学の誕生まで)を思想史的起源として、1853年のペリー来航、列強による開国から1918年の第一次世界大戦終結に至る60年間の「物語」が描かれる。
 
 本書ではわずか8ページの紙幅ではあるが、終章「日本にとっての近代とは」が面白い。「陸軍は奇兵隊の根本的思想であるデモクラシーを継承していきます。(…)日本のデモクラシーはこの後、陸軍とともに発展していくこととなります」(p.214-5)。半面、「これが、日本における近代であったといえるでしょう」と、「物語としての近代」をいささかの含みもなく言葉の中に閉じ込めてしまう筆の擱き方は意外でもある。アメリカとの戦争、敗戦による「近代の92年間」は、下巻でどのように総括されるのだろうか。