昭如を思う

大阪弁に独自の世界観込めて 町田康さん・川上未映子さん対談 (www.asahi.com 2010年8月5日)
 
 「大阪弁(関西弁)を使うと、文学になる」。そんな「神話」を耳にする。確かに標準語の「本当? だめ、だめ」より、「ほんま? あかん、あかん」の方が、登場人物の性格が立っているような気になる。
 大阪弁で書く作家に、野坂昭如さんがいる。よどみなくあふれる語りで、庶民の暮らしを描いてきた。80歳になるのを機に編まれた『20世紀断層 野坂昭如単行本未収録小説集成』(全6巻、幻戯書房)の刊行を記念して、同じく大阪弁を使う町田康さんと川上未映子さんが対談した。
 
 町田さんは野坂さんから、川上さんは町田さんから「根の深い影響」を受けたという。その根幹を町田さんは「大阪弁のメロディー」と表現した。
 常識的に考えれば、小説は構築的な「ハーモニー(調和)」を前提に、言葉で世界を作る。だが「大阪弁のメロディー」では、それが逆転し、言葉が小説の世界を進めていく。だから、世界は急激に変わっていくというのだ。
 町田さんは言う。「大阪弁は『ほんでな』、という接続で、話がどんどんスライドしていく」言語だ、と。
 
 それは人生の予測不可能性に似ているという。町田さんは、例として「職がない男」の話をした。職がなくて困った男がバイト先の紹介を知人に頼む。知人は「しゃあない、なら朝8時にここ来い」。男は来ない。「何で」と問うと「いや、何となく」。何となくに、理由はない。横滑りしていく「大阪弁のメロディー」は、そんな説明のつかない人間の生き方を表現できるというのだ。
 
 とはいえ「大阪弁のメロディー」で語れば、名作が書けるわけではない。川上さんは「そこにもう一つの目、『批評眼』が入ってくる」という。野坂さんは「敗戦国民」という「物語」を背負って書き続けていた。強い世界観があるから「ほんでな」が連なる小説でも軸がぶれない。漠然と大阪弁で語っても、決して文学になるわけではない。
 かつて川端康成谷崎潤一郎も関西の方言で作品を描いた。野坂さんは敗戦後の庶民を、川端は日本の美を、谷崎は女性のなまめかしさを、自分なりの方言を生み出すことで「作り出した」と言える。町田さんや川上さんの作品も、独特のリズムを持つ。
 
 「大阪弁を使えば文学になる」とは、「自分の世界観を込めた大阪弁を作る」という「難儀な道」なのかもしれない。