三島も登った山


 
 出張の帰り、奈良に寄り狭井神社から神の鎮座する山・三輪山に登る。スーツ(ただしジャケットはなし)に革靴という場違いな格好、12時半過ぎに社務所にて登拝料300円を払い、自ら大麻でお祓いを済ませて入山したが、尾根道を過ぎたあたり、10分もしないうちに一気に汗だくとなる。ただし、山中は木陰に覆われていて、時折心地よい風も吹くからそれほど苦痛ではない。飲食、写真撮影は厳禁だが、社務所で購入できるペットボトルでの水分補給は許されている。三島由紀夫の『奔馬』をイメージしながら、ひたすら山頂の奥津磐座(標高467.1m)を目指す。――
 
 所要時間は登り45分、下りが30分余りというところか。岨道の急坂をはじめ、途中何か所か険しい坂はあるものの、一気に登って登れない山ではない。途中、数人の下山者(老夫婦も何組か)と挨拶を交わす。
 
 それにしても、三島の作中、本多繁邦が「お山」に登った時代(作中は昭和7年の設定、「一般人は入ることができませんし、ふだんはよほどの古い崇敬者に限って入山をお許ししている」)と現代とでは、宗教や信仰に対する感覚や環境の隔たりはあまりに大きすぎるようだ。土留めで固められた登山道に、端的に言って「禁足地」の峻厳さはなかった。だからこそ、ご神体は真に崇敬者のみが登るべきなのだ。
 
 「もう一息でございます。そこがもう頂上です。沖津磐座と高宮神社がございます」
 と案内人はさして息切れもしない声で言った。
 沖津磐座は崖道の上に突然あらわれた。
 (略)
 磐座のすぐ上方にある高宮神社が、四百六十七メートルの標高を控えていたが、この小祠の簡素なつつましさが、磐座の荒々しい畏怖をなだめた。
 (三島由紀夫奔馬新潮文庫 p.45-46)
 
 さすがは三島の筆力、と言うよりほかはないが、実のところ、三輪山を半時間余り登り、椎や樫の樹林に包まれた急坂を過ぎると、山道は不意に平坦な広がりを見せ、標高446.7mの地に「簡素なつつましさ」を備えた高宮神社を目にするのである。沖津磐座はそのすぐ先、467.1mの山頂に蟠るように広がっているのを見ることができる。
 つまり、沖津磐座は、三島の書くように「崖道の上に突然現れる」ことはないのである。
 
 これは、三島の思い違いなのか(登山のルートが現在のそれとは違う、とも考えられなくはないが、「磐座のすぐ上方にある高宮神社」という配置が事実と決定的に異なる)。それとも、意図的な改竄なのか。実際に、三島が三輪山に登ったと推定される昭和40年代前半(つまりは現在から40数年前)の「三輪山」は、どのような状態にあったのだろうか。
 
 そして、本多が飯沼勲と再会した(それは松枝清顕との再会であるわけだが)三光の滝。その滝は……その滝は、禁足の光に包まれた永遠の中にこそ、とどまり続ける。
 
(写真は三輪山登拝口。午後2時には入山が締め切られる)