とんでもないサイズの…

謎の作家 ピンチョン全小説翻訳 「ノリ伝わる訳文に」柴田元幸さん (www.asahi.com 2010年7月19日)
 
 アメリカの現代文学を代表する作家の一人で、ノーベル文学賞の候補にもあがるトマス・ピンチョンの全小説8作品の刊行が、柴田元幸さんによる『メイスン&ディクスン』の初訳を第1弾に新潮社から始まった。素顔の知られていない謎の作家でもあるピンチョン小説刊行の意義を、柴田さんと翻訳の中心となる佐藤良明さんに聞いた。
 
 ピンチョンは73歳の今日まで私生活の情報がほとんどなく、顔写真も公表されていない。一時は作家のサリンジャーとの同一人物説まで流れた。
 実際には1937年に米ロングアイランドに生まれ、16歳で高校を卒業。コーネル大工学部に入るが2年を終えたところで志願して海軍に入隊。同じ大学の英文科に復学。ボーイング社に勤めたこともある。63年に『V.』でデビューしたが、創作に専念するため隠遁生活をしているといわれている。
 寡作で知られる。今回の全小説では、翻訳のある『V.』『競売ナンバー49の叫び』『重力の虹』『スロー・ラーナー』『ヴァインランド』については新訳、または改訳し、『メイスン&ディクスン』と『逆光』『インヒアレント・ヴァイス』が初訳となる。刊行は12年3月まで。
 
 『メイスン&ディクスン』は、独立戦争以前の米国で境界線紛争を解決するための測量を引き受けた天文学者メイスンと測量士ディクスンの旅の物語。彼らの引いた境界線は奴隷州と自由州を区切る「メーソン=ディクソン線」と呼ばれた。原文は18世紀の英語で書かれている。
 97年に発表されて以来、柴田さんは訳業に取り組んできた。「現代のアメリカ人が英語で読んだ時に感じる古くささを出すために、現代の日本人が明治の日本語を読むような文章にし、漢字を多用した」と話す。「輪菓子(ドーナツ)」「火酒(ウイスキー)」のように、普通名詞はすべて漢字にしてルビを振るなどの工夫をしている。
 
 全小説の刊行について柴田さんは「60年代から70年代にかけてのアメリカ小説は実験小説の時代でもあり、同時代的に翻訳されてきたが、難解にならざるをえなかった。それを読者も仰ぎ見る視線でありがたがっていた傾向があったが、今は自分と同じ目の高さで読もうとしている。それは健全なことであり、それにふさわしい翻訳があるだろうと思う」と話す。
 登場人物の生々しい声がよく聞こえ、文章のノリが伝わり、笑いが生きている訳文を目標としたという。
 
 『重力の虹』の新訳などを手がける佐藤さんは「アメリカでは80年代の高度資本主義社会に切り替わる前に、ピンチョン作品をはじめ、とんでもないサイズの文学作品が生まれていた。文章がアートになっているのでストーリーを追うだけではなく、相当な知識をもって日本語に練り込まないといけない。今、やっとこれだけの大きな作品を消化できるようになってきた」。
 
 ピンチョン作品は、いくつもの逸話が絡まり合ってなかなか全体像が見渡せない。
 佐藤さんは「ハードルを下げてしまうと面白さは伝わらない。おいしい食べものがあるようにおいしい読み物がある。それは誰もが簡単につくれるものではない。全体が見えるように訳しているので、新しい翻訳を楽しんでほしい」と話している。