高橋源一郎 『「悪」と戦う』

 この小説を読み終わって、アクセスしたネット上にこんな記事が見つかった。
 
虐待児の頭の傷、DB化 産総研など、正確な診断目指す (www.asahi.com 2010年5月30日3時1分)
 国立病院機構大阪医療センター産業技術総合研究所産総研)などのグループは、虐待を受けて頭をけがした子と別の原因でけがをした子の検査データを集め、虐待によるけがの特徴を明らかにする研究を始めた。虐待によるけがを医師が正確に診断するための判断材料を提供することで、早く虐待を見つけて子どもを守る一方、虐待でないケースを虐待と判断してしまう間違いの防止に役立ててもらう狙い。
 海外の研究などによると、虐待で頭にけがをした子の15〜38%が死亡し、命を取り留めても30〜50%の子に重い後遺症が残るとされる。厚生労働省などの調査では、虐待を受けて死亡した子の5割弱が0歳で、その半数近くが頭部外傷を負っていた。体を強く揺さぶられたり、打ち付けられたりすることで、頭蓋内出血や脳挫傷などを起こす。頭のけがを正確に診断することが治療の前提になる。
(略)
 研究の代表を務める山崎麻美・大阪医療センター副院長(脳外科)は「虐待を科学的に診断するための基になるデータベースを作りたい」と話す。
(--引用終わり--)
 
 そうだ、ぼくたちの世界は、ついに子どもたちの虐待を「科学的に診断するためのデータベース」をつくり始めることになった。
 不意に、『カラマーゾフの兄弟』「プロとコントラ」の中の有名な一節、
 
 おまえにこの意味がわかるか? 自分がいまどうなっているかろくにまだ判断できずにいる幼い子どもが、暗くて寒いトイレのなかで、苦しみに破れんばかりの胸をそのちっちゃなこぶしで叩いたり、目をまっかにさせ、だれを恨むでもなくおとなしく涙を流しながら、自分を守ってくださいと『神ちゃま』にお祈りしている。おまえにこんなばかげた話が理解できるか。亀山郁夫訳)
 
 をぼくは思い出す。
 
 生まれたばかりの赤ちゃんをバスタオル一枚にくるみ、放置された自転車の荷物カゴに置き去りにする母親。「体温は三十三度を切った。きみは凍りつこうとしている。でも、きみは、まだ、おかあさんが戻って来るかもしれないと微かに信じながら、懸命に瞼を開こうとしている」。
 
 あるいは、
 
(苦しいのかい 苦しいんだね 大丈夫 もう少しの我慢だから)
 
 そう囁きながら、きみの細い頸にくいこませた指に、最後の力を込めようとする父親――。
 
 なぜ子どもたちは「悪」と戦わなければならないのか? その不毛な戦いはどのような結末をもたらすのか? 言葉は、文学はその「戦い」をついに描ききることはできるのだろうか?