高橋昌一郎 『知性の限界』

 完全に民主的な社会的決定方式は存在しないことを証明したケネス・アロウの「不可能性定理」、量子力学で記述される粒子の位置と運動量を同時に正確に測定することはできないことを示したハイゼンベルクの「不確定性原理」、システムSが正常であるとき、Sは自己の無矛盾性を証明できないゲーデルの「不完全性定理」をそれぞれの柱に、選択の限界、科学の限界、知識の限界を示した前著『理性の限界』に続く第2弾。
 
 第1章「言語の限界」では、前期ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』においてすべての哲学的問題に最終的解決を与えたこと、「過去の『哲学的問題』は『言語的問題』にすぎ」ず、語りうることは明らかに語りうるのであって、「語りえないことについては沈黙しなければならない」という有名な結論を紹介する。すべての哲学的問題は言語の誤解から生じた「疑似問題」に過ぎず、中世のスコラ哲学者が大真面目に議論していた「針の上で何人の天使が踊ることができるか」というような問題は、初めから退けられることになるだろう。
 一方で、ウィトゲンシュタイン自身が気づいていたように、哲学用語を使用して記述された『論理哲学論考』は、まさにそれ自身が定めている判定基準によって「無意味」となってしまう。小学校教師の仕事の挫折を経て、ケンブリッジ大学に復帰した後期ウィトゲンシュタインは「生活形式」という概念を頻繁に用い、「言語は本質的に『公共性』を有するものであり、ただ一人の個人にだけ理解されるような『私的言語』は存在しない」(p.61)と考えた。
 18世紀ドイツの哲学者、ヨハン・ヘルダーの『言語起源論』を経て、思考が言語に依存することを明確に示した「サピア・ウォーフの仮説」(エドワード・サピアベンジャミン・ウォーフ)に至って、人間の認識は彼が育った「文化圏」に否応なく縛られてしまうことに気づかされる。それどころか、言語と世界との関係は幻想に過ぎず、「指示の不可測性」(クワイン)や「翻訳の不確定性」、「ウィトゲンシュタインパラドックス」といった問題も内在していることが分かる。それどころか、いかなる理論も「最終的」あるいは「唯一の」真理に到達することがない(「理論の決定不全性」)としたら…?
 
 第2章「予測の限界」では、帰納法パラドックスや「ヘンペルのパラドックス」(「すべてのカラスは黒い」の対偶「すべての黒くないものはカラスでない」の確証原理から「黄色のバナナ」が持ち出され、黒くもなければ白くもないその黄色のバナナの「すべての白くないものはカラスでない」という合致例が「すべてのカラスは白い」という結論をもたらしてしまう)を踏まえた上で、「理論は決して経験的に実証されない」というカール・ポパーの「反証主義」を紹介する。モラル・サイエンス・クラブでの、ポパーと(火かき棒を持った)ウィトゲンシュタインとのつばぜり合いの話は有名だ。さらに、未来予測と人間の選択の問題に絡めて「ニューカムパラドックス」や、気象現象や経済現象などに現れる「複雑系」そのものにグーテンベルク・リヒターの法則やべき乗法則といった「統計的法則」が成立していることの不思議について語られている。
 
 そして、第3章「思考の限界」では、スティーブン・ホーキングの著作などにより一般にも知られるようになった「人間原理」のパラドックスがまず紹介される。
 人間をはじめとする生命は炭素系化合物であるから、宇宙に炭素がなければ存在できない。その炭素は、ヘリウム4の原子核2個が結合して、原子核に陽子と中性子4個ずつを持つベリリウム8が生じ、そこに別のヘリウム4の原子核が結合することによって誕生するわけだが(トリプルアルファ反応)、ベリリウム8が非常に不安定な原子であるため、3個目のヘリウムと結びつくだけの時間がないことが大きな問題となっていた。この時、フレッド・ホイルが示した「炭素が宇宙に豊富に存在し、そのおかげで自分(人間)が存在してこのように思考している以上、炭素を生成させるような共鳴が生じているに違いない」という発想こそが「人間原理」に他ならない。
 それにしても、ホイルの跡を継いでケンブリッジ大学天文台長になったマーティン・リースは、宇宙を支配する6つの物理定数を挙げ、これらのどれか一つでもうまく「微調整」されていなければ、「銀河の千億個の中の一つの、しかもその中心から外れた位置にある平均的な恒星を回る中規模の惑星の上に生じた化学物質の浮いたカス」(ホーキング)に過ぎない人間も、それどころかこの星や宇宙自体も生まれては来なかっただろうと語っている。それは「強い相互作用の核力ε」「原子を結合する電磁気力の強さを原子間に働く重力の強さで割った数N」「宇宙で重力エネルギーが膨張エネルギーに対してどれだけ大きいかを示す数Ω」「宇宙の反重力の強さを示すλ」「宇宙の銀河や銀河団の静止質量エネルギーと重力エネルギーの比率を示す数Q」「宇宙の空間次元数D」だ(p.198)。この「人間原理」という発想は、いかなる物理定数も人間に都合よく「微調整」されているとみなす論法であり、「反証不可能」な故に、(ポパーに言わせれば)科学ではないということになるかもしれない。
 本書ではここから、帯文にも掲げられたファイヤアーベントの「科学は本質的にアナーキスト的行為だ」という方法論的アナーキズムを紹介する。紀元前3世紀にアリスタルコスが唱えた地動説が、1800年の歴史を経てコペルニクスによって蘇ったように、反証された科学理論は決して「絶滅した恐竜」などではない。ファイヤアーベントの哲学的スローガン「何でもかまわない」の真意は、科学を「頑固でガミガミと要求ばかりする女から、恋人のすべての希望を叶えようとする魅力的な女に変貌させる」ことにあるのだ。
 
 一方、形而上学の主題としては神の「宇宙論的証明」「存在論的証明」「目的論的証明」が検討される。いわゆるインテリジェント・デザイン論に対して、デイビッド・リンデンの「脳はさまざまな側面から見て、もし誰かが設計したのだとしたら、『悪夢』と言えるくらい酷いものである」という所見が面白い。また、ここではカントの二律背反(理性が伝統的形而上学に直面するとき、究極的には必然的に「二律背反」に陥る)と不可知論についても言及されている。
 そして最後に、「人間思考の限界と可能性」と題し、ジョン・ポーキングホーンの「宇宙製造マシン」論を紹介。ジョン・レスリーは、この装置から宇宙が誕生する確率を、「20人の銃撃手が処刑台に繋がれたあなたの心臓に照準を合わせながら、命令とともに全員が発砲したにもかかわらず、一発も当たらなかった」話に譬えている。
 だが、それは果たして奇跡なのか? 本書の仮想シンポジウムの参加者の一人である進化論者は次のように言う。
 「いまここにあなたが存在していますが、そのためには2人の親が存在しなければなりませんね? そのためには祖父母4人、曾祖父母8人といった具合に、あなたのn代前の先祖としては、2のn乗人が必要になります。仮に千年遡るとすると、およそあなたの40代前の先祖になるでしょうが、その時点で先祖の総計は数兆人になります。これでは当時の全人口を超えてしまいますから…現在地球上に生きている人々の先祖は…皆親戚同士だということになるわけです。…逆に未来に目を向けると、仮にあなたの血統が絶えずに子孫を残し続けるとすると、いまから3千年後の地球上に生存する人類は、すべて何らかの形であなたの血縁の子孫だということになるのです」(p.249-250)
 このことは、20の物理定数の「微調整」の「奇跡」についても、それほど驚くべきことではない、ということを物語っている。
 
 このほかデイヴィッド・ドイッチュの「超知性」や、エドゥアルト・フォン・ハルトマンの「宇宙的無意識」も刺激的。理性はすばらしいものだが、人間を硬直させて自由を奪う魔力も持っている(ファイヤアーベント)。その「限界」を超えるための楽しい饗宴の一冊だ。