大屋雄裕 『自由とは何か ――監視社会と「個人」の消滅』

 日本郵政グループ従業員の「お金の管理に絡んだ犯罪(1万円以上)」が2009年度に42件あり、被害総額は20億1200万円に上ったという(www.asahi.com日本郵政の従業員犯罪、被害総額は20億円 09年度」)。08年度は53件、3億4600万円で、被害総額は約6倍に増加した計算だ。朝日新聞によると「日本郵政は07年、職員の作業をチェックするため全国の郵便局のオフィスに監視カメラを設置したが、政権交代後の昨年秋に、国民新党などの要求を受けてカメラの撤去を始めた。郵便局会社は『監視カメラと被害額に直接の関係があるとは思えない』(広報)としている」とまとめているが、そもそも「監視カメラ」に象徴される「監視社会」とは、一体どのようなものなのか。
 
 本書の著者・大屋雄裕は、「自由な個人」という“フィクション”を問うに当たって、「国家権力」の淵源を中世ヨーロッパの同業組合(ギルド)成立にまで遡って考察する。ヨーロッパ中世における「選民」、すなわち「被差別民の成立にギルドが深く関わって」(p.34)いたように、共同体内部の自由は、つねに外部を排除することによって成立する。しかし、国家の成立した近代において最も恐ろしいのは「多数者の専制」である。なぜなら「それは単に政治的機能に限定されず、生活のあらゆる場面で何が正しいか・何が許されているかを規制しようとする危険性を秘めている」(p.50)からである。
 
 そもそも「自由」とはいったい何なのか。アイザリア・バーリンは1958年に発表した論文「二つの自由概念」において、「消極的自由」と「積極的自由」という2つの類型を提示、対比する。消極的自由に見る「強制の欠如」とは、フランス人権宣言における「法により禁止されないすべてのことは、妨げることができず、また何人も法の命じないことをなすように強制されることがない」。一方、積極的自由とは古代民主制におけるように、「自分の属する共同体の運命を自らの手で決めること、その決定に参加すること」だ。ヘーゲルは「強制の欠如」というような消極的なものは真の自由たり得ず、「自己自身のあり方を決める意志」こそが真の意味で自由な意志なのだと断じているし、ハンナ・アーレントもその意味で古代民主制を賞揚している。
 しかし、「自由」をめぐるこうした二分法は現代においてなお有効なのか、というのが本書での大屋の指摘だ。バーリン自身、「積極的自由という観念の方が消極的自由の観念よりも悪用ないし歪曲されることが多かったから」と述べ、両者を対立的に考えるのは間違いであると指摘している。
 フランス革命のイデオローグ、ルソーはその著、『社会契約論』において「人民の意思」を2つに区別した。一つは「全体意思」であり、個々人が現実的に行う意思表示を集計したものである。しかしこれによって「正しい」国民の意思を知ることはできない。これに対して、集合的・精神的存在としての共同体固有の意志である「一般意思」は正義の実現に向かって誤ることがない。だから為政者は、全体意思でなく一般意思に基づいて政治を行わなくてはならない、というのがルソーの思想のポイントだ。
 そこから、「一般意思に基づいて作られた方が個々人に不本意服従を要求するとしても、ルソーにとってそれは強制ではなくむしろ自由を意味する」(p.72)という結論が導かれる。だが、本当にその「一般意思」は、個々人のより高次な意思たり得ているのだろうか、という疑惑は決して晴れることはないだろう。
 
 本書第二章「監視と自由」では、規制手段としてのアーキテクチャに注目するローレンス・レッシグの議論に基づき、「監視社会」の是非が検討される。ジョージ・オーウェル『一九八四』における"BIG BROTHER IS WATCHING YOU"、あるいはクメール・ルージュの指導者ポル・ポトという“奇妙な独裁者”に象徴される「見ることの権力」。この視点から言えば、新宿・歌舞伎町一帯を覆い尽くす50基の「監視カメラ」などは、「国家の市民社会への介入の強化」と見えなくもないだろう。メディア法学者・田島泰彦はこのように国民の安全を守るという目的でセキュリティが強化されていくことを「市民的法理の構造転換」と呼び、強く批判している(p.89)。しかし、「他者を監視すること、それによって自らの安全その他を確保しようという欲望はむしろ国民のものであり、国家の独占物ではない」(p.90)。それどころか、現代ではアーキテクチャによる「監視と統計と先取り」、パノプティコン的分類によるマーケティング・システムがもたらす利便性は、国民の方が進んで求めているとも言えるのだ。
 
 ミシェル・フーコーは『監獄の誕生』において、パノプティコンに近代的な権力の姿が示されていると考えた(p.107「見られていることを意識しているとき、囚人は自発的に処罰を避けようとする」)。そして情報技術の発展によって、監視のテクノロジはもはや国家の独占物ではなく、企業や共同体、さらには我々一人ひとりによって活用されるのだ。デービッド・ライアンはこうした状況を「監視社会」と呼び、そこでは個人の身体が消失する、「徹底した監視の下で我々が監視された情報の集積へと還元されて」いると指摘する。
 
 ローレンス・レッシグ『CODE』に示された「アークテクチャ」を、例えばわれわれは例えば新宿西口から都庁に向かう地下通路に備えつけられた円筒形の奇妙なオブジェに見いだすことができるだろう。「主体が気づくことなしに従わされてしまう」権力。しかし、「我々は監視が親切であることを認めるところから始めなくてはならない。…監視と、それによるリスクの排除は、我々自身の欲望だったのである(p.124-127)。
 
 第三章「責任と自由」では、刑法における責任と自由の問題を歴史的に検証しながら、「リスクの徹底した排除が我々の主体性を失わせ、確率的な操作を加えられる対象に還元していくこと、そこにおいて自由や自立といったものが存在する余地が失われていく」(p.168)ことが確認される。いずれにせよ、ある行為の善悪や、規則との合致を事前に・行為の前に確実なものとすることはできない。従って、「規則からの逸脱を事前に関知し、コントロールしようとする強化された監視のシステムは、我々の行為可能性を過度に抑制し、自由を殺すことになる」(p.175)のだ。
 「人々が自由であり、自己決定をする主体だということは、一つのフィクションである。だが現在の法は、あるいはそれを含む社会全体はそのフィクションの上に成立しているのであり、またそのフィクションの内部から見ればそれは確かな現実なのである」(p.196)。
 
 こうした中、著者・大屋は最後の結末部に挑発的な問いを投げかけている。「いま、アーキテクチャの権力の発達によって人格抜きの支配が成り立つようになり、しかもその方が効率がよくて皆で気持ちがよくなれそうである。だとすればなぜ、人格とその自由などという古くさいフィクションにこだわらなくてはならないのか?」(p.201)。本書では「自由な個人とはいまだなお信ずるに足るフィクションである」という暫定的な回答が示されているだけだ。しかし、不可視的な権力の所在を意識しようという試みを放棄したときに、われわれの「自由」もまた真に失われてしまうことは間違いない。その是非のただ中に生きているということこそが、現代における「リスク社会」の定義に他ならないのだろう。