内田樹+釈徹宗 『現代霊性論』

 2005年9月から半年間、神戸女学院大学大学院で行われた同名の対話型講義をまとめたもの。「霊」という、エヴィデンス・ベーストでは実在を証明できないものであっても、世界が「あたかもそのようなものが存在するように機能している」のだとしたら、それについて「現象学的に考察することは可能だ」という共通理解に基づいて、現代の都市を席巻する「スピリチュアルブームの正体」から「宗教と国家権力」、アメリカのエヴァンジェリカル福音主義)、靖國問題、イスラムにおける「ラマダーン」、インセスト・タブーまで、鈴木大拙から出口王仁三郎岡田茂吉高橋信次まで、『炎のランナー』『クロスロード』から『冬ソナ』『クローサー』まで、あるいは「スピリチュアリズムパウロコナン・ドイルからエドガー・アラン・ポー、アンリ・ベルグソン、久ルックス、トーマス・マン、あるいはダイモニオンと交信するソクラテスまで、ユーモアを交えつつ自在に語られる。
 
 「死ぬというのは、儒教では、肉体と魂が分離することです。…だから、『魂』が還ってきたときに、『魄』がないと宿るところがなくて困るので、『依代』といって『位牌』を作ったわけです。だから位牌というのはもともと仏教ではなくて、儒教文化のところに生まれた習俗なんです」(釈、p.20)
 
 「日本でも明治維新以降、国民はみんな名字と名前をつけられますけど、これはつまり、『個人』という縛りがなかったら近代は成立しないということです。…全員が名字と名前を名乗ることによって、近代の呪縛が始まったわけですね」(釈、p.37)
 
 「チンパンジーやゴリラなど、類人猿の眼というのは、みんな白目のところがなくてぜんぶ黒目らしいんですよ。なんでかと言うと、瞳の動きをわかりにくくするためです。…なのに、人類がわざわざ敵に行動を教えるような、ものすごい危険な方向に進化してきたのはなぜか。それはコミュニケーションをとりやすいように、相手に自分の気持ちをメタのレベルで伝えやすいようにするためだ、と」(釈、p.66)
 
 「荒行や坐禅や瞑想をすることで、この世と外部をつなぐ回路が開いて、いろんなものが見えたり聞こえたりするのを、伝統宗教では『単なる生理現象だから、宗教の本質には関係ない』とばっさり切って捨てます」(釈、p.85)
 
 「新興宗教のプロモーション・システムって、企業や軍隊のシステムと似てますよね。『勝ち組・負け組』とか、そういうドミナントな価値観を過度に内面化した人たちが、表のプロモーション・システムとは別のシステムで階層を急上昇するということに強く惹かれるということがあるんじゃないかな」(内田、p.98)
 
 「死者の声を聞き取りたい、でも聞こえないという『宙吊り』状態のうちにあえてとどまる節度が服喪という儀礼の霊的な豊饒性を担保する」(内田、p.186)
 
 「どうして親族があるのか、どうして貨幣があるのか、どうして言語があるのか。誰にも制度の起源は説明できない。それを『私は説明できる』と言うのは、よほど自己中心的で愚鈍な人間だけです」(内田、p.224)
 
 「僕は、自我というのは一種の仮説だと思っているんです。外と内という言い方をしたときに、自我というのは内側のことだと思う人がいるけれど、そうじゃない。外と内の境界面みたいな、皮膜みたいなものが自我じゃないかと思います」(内田、p.271)
 
 「霊的スポット」としての繁華街、地名の「塚」、橋と四つ辻の話などオカルティックな挿話、それに体育会系の「旧日本軍の内務班的な教育論」のような異常に非対称的な権力関係の話も少々。
 最後に、釈徹宗氏の言葉から。
 
 「みんな似たようなことで苦悩し、死について考えたり、死を希求したりします。大切なのは、『それはけっして自分だけが気づいているのではない』という感覚です」(p.269)