三島由紀夫 『奔馬 豊饒の海(二)』

 舞台設定は昭和7年6月16日。その2年前、昭和5年11月に右翼青年・佐郷屋留雄による浜口雄幸首相狙撃事件が起こり、翌6年には陸軍中佐・橋本欣五郎大川周明らによる三月事件(戦後発覚)と十月事件(未遂)、さらに物語が動き出す7年には血盟団事件五・一五事件が世間を震撼させた、いわゆる「テロリズムの時代」を背景としている。
 ただし、例えば佐郷屋青年が一旦は死刑判決を受けながら、減刑嘆願書を得て、翌年恩赦により無期懲役減刑されたように、世界恐慌後を経て、寒村の農民をはじめ多くの国民が絶望的な貧困、疲弊に喘いでいた現実にあって、政財界の腐敗、紊乱を糺そうとする新しい世代の運動に、世間は必ずしも冷淡ではなかったことも押さえておくべきかもしれない。
 
 『春の雪』での松枝清顕の死から18年が経ち、『奔馬』では本多繁邦は38歳になり、大阪控訴院の判事に収まっていた。巨大な菊の御紋章が燦然と輝く国家理性の「番人」として、「生きたというには妙に軽々しく、若さにとっては不本意な死を引きず」りながら毎日を過ごしている。
 そして、ある偶然から、本多は奈良県桜井にある大神神社で開かれる神前奉納剣道試合に参列することとなり、そこでかつての松枝家の書生、飯沼茂之の息子、勲と出会うことになる。
 官幣大社大神神社はもちろん、狭井神社から登る三輪山中の描写は、冒頭のクライマックスと言えるものだ。沖津磐座、高宮神社など、一度は御山に登って自分の目で確かめたい。そして、参拝を済ませたあと、三光の滝での勲との再開と「衝撃」――。
 
 むろん、「輪廻転生」という、現代小説としては荒唐無稽とも取られかねないテーマにリアリティーを与えるため、作家は『春の雪』から仕掛けておいた伏線を本書の至る所で周到に爆発させ、読者を物語世界の核心へと誘い、読者をいわば「共犯者」へと仕立て上げていく。その技巧の超絶さは舌を巻くほかない。
 「小説内小説」である『神風連史話』は、史実に基づいているだけに興味深いが、「あれほどの敬虔な精神の集中、あれほどの純一無垢の志に、何故神助が添わなかったのか」という一文は印象的であり、物語の末路を示唆してもいる。
 
 登場人物では、井筒や相良ら若い「同志」をはじめ、勲らを精神的に指導し最後には裏切りをみせる堀中尉、あるいは『春の雪』の因縁から聯隊長として再登場する洞院宮らが物語に躍動感を与えているが、注目すべきは、綾倉聡子とはまた違った形で結果的に勲を翻弄し、打ちのめすことにもなる鬼頭槙子、そしてその性格づけに作者が最後まで決定的な結論を示さなかった佐和の存在だろう。
 物語は中盤、甲斐国北都留郡梁川に位置する真杉海堂の道場近くの山麓で、一つの劇的な展開を見せ、「不発の結末」へと急激に進んでいく。そして暗黒の時刻の最中の、あまりにも唐突な終末。それは、勲がかつて夢見ていたような「昇る日輪を拝しながら」の最期ではなかったのだが……
 
 「この考えを、しかし、もう一歩押し進めれば、人は世にも暗い思想に衝き当るのだ。それは悪の本質は裏切りよりも血盟自体にあり、裏切りは悪の派生的な部分であって、悪の根は血盟にこそあるという考えだった」
 
 このとき、作者三島は飯沼勲に何を仮託し、読者に対してどのような「世界」を見せようとしていたのだろうか。三島文学の中でも、あまりにも有名な最後の一文に向かって、この物語は荒れ狂う奔馬のように疾走するのだ。