池澤夏樹 『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』

 「ユダヤキリスト教では世界は人間のために造られたというのがセントラル・ドグマだと考えていたんですが、必ずしもそうではない」(p.264)と、聖書学・秋吉輝雄との対話の中で池澤夏樹は言う。果たして、神は「人間がいない世界」を嘉しているのだろうか――? 
 
 今からおよそ30年前、ある盗掘者が中部エジプトの洞窟から、コプト語で記された写本を発見した。その後、研究者や古美術商らとの間で写本は転々とするが、21世紀に入り、ついに専門家チームによる本格的な復元解読作業が開始された。いわゆる「ユダの福音書」の世紀の大発見である。
 同書の存在は2世紀後半、エイレナイオスが著した『異端反駁』により知られていたが、多くの外典と同様、その内容は失われ、忘れられていた。解読作業の結果は、キリスト教に関わる多くの人々を驚かすものだった。同福音書には「ユダはイエスの特命を受けて、お互い承知の上でイエスを裏切った」と記されていたのである。
 
 ユダヤ人受難の歴史の起源には、「(イエスを裏切った)ユダという個人名がユダヤという民族名と重なっていた」という悲劇的な偶然が存在する。「それなのにキリスト教徒はそこのところをわざと混同して、イエス殺しの罪をユダヤ人全体に象徴的にかぶせた」(p.260)というわけだ。
 
 しかし、言うまでもなくキリスト教の成立にユダの存在は欠かせない。その逆転した視点から聖書を読み返すと、多解釈的な、思いも寄らない世界観が改めて眼前に広がってくる。冒頭に引用した、人間中心主義の否定も同様である。こうした中で、人間の祖先は本当にアダムだったのか、「アダムの前に人間は存在しなかったのか」というような素朴な問いも再浮上してくるのである。
 
 旧約聖書は元来、カルデア文字(当時の中近東の国際文字)で記されていたが、このアラム文字は表音文字でありながら、ローマ字と異なり母音を表す文字がなかった。従って、そこに何が書かれているのかは、朗誦によって伝承する以外にはない。また、ヘブライ語には過去形がなく、ヘレニズム的なクロニクル的発想が旧約世界にはそもそも存在しない、という指摘にも驚かされる。それが、イエス・キリスト以後の時代になると、ギリシア語訳「七十人訳」聖書の影響などから世界観が大きく変わっていく。「エデンの園」を楽園と見るのもその一つで、その根源は「プラトンイデア論」(p.54)にあるというのだ。
 
 キリスト教には、「なぜ全能の神は一気に悪魔をやっつけてしまわないのか?」というフライデーの詰問(p.263)に象徴されるようなアポリアが満ち溢れている。信仰者ではないぼくにとって、それこそがキリスト教の尽きせぬ魅力ともなっているのだが、本書ではほかに数秘術(「イエスの死後、シモン・ペトロに魚をとらせると、魚が153匹とれた」ヨハネ福音書21-11)や神聖四文字(テトラグラム)YHWH、誤読から生まれた「エホバ」や聖母マリアの処女性、「高台」と「血」の誤訳、現代におけるユダヤ人問題など、「聖書」世界をめぐる興味深いエピソードとアプローチが詰まっている。