予め空洞化していた

核密約、「事前協議制度」解釈の違いが発端 関係者証言 (www.asahi.com 2009年9月21日3時2分)
 
 核兵器を積んだ米国の船や航空機の寄港・通過を認める「核密約」が成立した経緯が、関係者の証言で判明した。60年の安保条約改定で始まった「事前協議制度」で、日本側は当初、寄港・通過を協議対象になると理解。米国側は対象外と解釈していた。その後日本政府はひそかに解釈を米側に合わせ、寄港・通過を黙認。非核三原則(67年)の「持ち込ませず」は最初から空洞化していた。
 
 日本政府は解釈の変更を米側と確認した後も、実態とかけ離れていることを承知で、国会などで従来通りの答弁を繰り返した。外務省内ではその後、核の寄港・通過を公然と認めるべきだという「正面突破論」が何度も浮上したが「内閣が崩壊しかねない」などの理由から、その都度立ち消えになったという。
 外務省内で核密約を扱う立場にあった元幹部6人が、朝日新聞の取材に対して、こうした経緯を証言した。何人かはこの夏、外務省の現役幹部に詳細を説明したという。
 
 証言をまとめると、「核密約」は(1)日本側が「解釈の食い違い」を米側に合わせる形で埋めた(2)そのため、核の寄港・通過が継続された(3)日本政府は国民にその事実を隠し続けた――という経緯で段階的に成立したことになる。
 「解釈の食い違い」の発端となったのは、安保条約改定の際に導入された事前協議制度の詳細について日米で確認した「討議記録」。今も極秘扱いとなっている。この中に事前協議制度が「米海軍艦艇の日本領海・港湾への進入に関する現行の手続きに影響を与えるものとは解釈されない」との一文がある。50年代から核の寄港・通過を自由に行っていた米側は、この一文で事前協議に縛られないと解釈した。だが、米側が具体的に説明しなかったため、日本側は寄港・通過が「事前協議の対象」になったと理解。双方が都合よく解釈していたのだ。
 
 63年に池田勇人首相が行った「核弾頭を持った船は、日本に寄港はしてもらわない」という国会答弁などを知って「解釈の食い違い」を懸念した米国は、同年4月にライシャワー駐日大使が大平正芳外相に米国の解釈を伝えた。さらに68年1月には、ジョンソン駐日大使が牛場信彦外務次官と東郷文彦北米局長に詳しい経緯を説明した(肩書はいずれも当時)。東郷氏は60年安保条約交渉に担当課長として臨んだ当事者だったが、このとき初めて「解釈の食い違い」を知り、自らの不明を恥じる文書を内部に残していたという。