吉本隆明 『私の「戦争論」』

 図書館で吉本隆明『私の「戦争論」』を読む。
 
――漱石のような大文豪が、なぜ死にもの狂いになって三角関係のことを書くのか? 三角関係なんて、つまんないといえば、つまんないですよ。…(でも)それは、やっぱり、人間の生死をかけた問題なんです。 (p.47)
 
――西洋でいう「国家」とは、我々がいうところの「政府」という意味合いとほぼ同じです。つまり、国家は市民社会の上に乗っかっていて、タバコの専売権を持つとか、国民が国家を相手に訴訟を起こすとか、西洋では、国家はそういう対象化できる機関的な存在なんです。ところが東洋では、国家とは、頭のてっぺんから爪先まで、民衆をすっぽりと包み込んでしまうような存在だと思われているんです。…これは、地理的条件に拠るところが大きいんです。…東洋では農業の灌漑工事とか水利工事とかいった公のことは国家がやったんです。…東洋の民衆にとっては、国家とか公というのは個人よりも大きい…という意識が歴史的に染みついちゃっているんです。 (p.49〜50)
 
――日本の天皇制というのは、アジアの極東地区の辺境国家に見られる「生き神様信仰」の一つなんです。「生き神様」はチベット、ネパール、東南アジア、オセアニアなどにも見られます。…それはやはり、個人よりも国家や公の方が大きいという意識につながるわけです。 (p.51)
 
――今、「大東亜戦争」肯定論をぶち上げている論者たちの本音は、戦後民主主義の息の根を止めてやろうということにあると思います。…「大東亜戦争」肯定論というのは、戦後もずっとあって、その元祖は林房雄です。…この人がいうなら、なるほど“ごもっとも”という面があったんです。次に…肯定論を展開したのは、京大の上山春平です。このあたりになると、戦後民主主義へのアンチテーゼというか、政治的意図みたいなのが出てきて、反動的な面が出てきます。…でも、今(三番目)の肯定論に、文明や文化についての、現在から未来にかけての構想が示唆されているとは思えません。 (p.135〜136)
 
――シモーヌ・ヴェーユは、戦争とは何かといったら、それは結局「政権を握っている支配者が、他国の労働者を使って自国の労働者を殺させることと同じだ」といったんです。…「戦争なんか全部ダメだ」っていうのがヴェーユの戦争観で…もうここまでいい切ってしまえば、終わりなんです。 (p.214)