アンダーライン

元の持ち主どんな人 書き込み残る古本「痕跡本」が人気 (www.asahi.com 2009年5月7日3時8分)
 
 書き込みが残る古本を「痕跡本」として売っている古書店がある。愛知県犬山市薬師町のアートスペース、キワマリ荘に昨年開店した「五つ葉文庫」。普通なら嫌われる傷本だが、手にとって見つめるうちに、元の持ち主が目に浮かんできて楽しくなる。確かに痕跡本は面白い。
 
 店主は春日井市に住む古沢和宏さん(29)。名古屋造形芸術大(現・名古屋造形大)に在学中から古書即売会で掘り出し物を探すのが好きだった。やがて、「大切に読みこまれた本には持ち主との物語が刻まれている」と気づき、書き込みや汚れが残る本を痕跡本と名付けて集めるようになった。
 普通の本とは区別して本棚に置かれた痕跡本20冊は、主に名古屋の古書店を歩き回って入手した。どれにも魅力たっぷりの痕跡が残る。
 
 たとえば大月書店の国民文庫『空想から科学へ』。1960年に出た共産主義の基本文献は、とじ糸がほつれ、メモと傍線が全ページを埋める。政治の季節の熱気に打たれた学生の姿をほうふつさせる逸品だ。司馬遼太郎の『ロシアについて』は巻末に読了日をしめす日記風の書き込み。「昭和六十一年八月五日。昨四日台風十号、福島、仙台に被害を与えて去る」。太宰治新潮文庫津軽』には、「たいくつなりし本なれど、故郷は良いなあ」と奥付に鉛筆で一言書かれていた。
 珍妙なものでは、芥川賞作家堀江敏幸のデビュー作『郊外へ』。お金の貸借をメモしたらしい「3000」の数字と携帯電話番号が巻末に。書き込みが全くない代わりに、やたらとページの隅が折られた『異星人との対話』というのもある。
 
 本と持ち主の関係に思いをめぐらす古沢さんの達意の文章が1冊ごとに添えられている。売値は4500円から8万円。相当に高めだが、「初版本や希少本に高値がつくように、痕跡本の価値も評価されるべきだ。痕跡の重みや面白さを自分なりに評価した価格です」と話す。営業は毎週土、日の午後1時から午後7時まで。

 重要な箇所に赤鉛筆か何かで傍線を引いたり、黄色のダーマトグラフィーで文章をなぞったりするのは、読書術でもよく紹介される例だ。いちばん簡単なのはページの端を折ることで、これなら外出中など手元に筆記具がなくてもすぐにチェックできる。一方で、「3色ボールペン」は、斎藤孝が著書で紹介して広く知られるところとなった。ほかにも松岡正剛の「セイゴオ・マーキング」術なるものまである。傍線や囲みにもさまざまな凡例があって、書物という「あらかじめ文字の印刷されたノート」に独特の書き込み=編集を施していくことによって、世界に一つしかない「彼自身のための書物」が誕生するというわけだ。
 半面、“どんな本にでもカバーをかけなければ気が済まない”ような潔癖性な読者の中では、わざわざポケットサイズの付箋紙を常備して、気になる箇所にぺたぺた貼り付ける人もいるという。
 
 大江健三郎のエッセーで、若い頃、恩師である渡辺一夫教授からフランス語の原書を借りて読み出したところ、それほど頻繁ではないが、しかしここぞという箇所に端正なアンダーラインが引かれてあって、身の引き締まる思いがした、という話を読んだことがある。青年時代の大江の直筆原稿を見ると、推敲による夥しい書き込みが加えられてあって、「消しゴムで書く」安部公房と好対照のスタイルとしてよく話題になった。文筆におけるこうした「癖」は、蔵書の書き込みにも反映されているのだろうか、と興味を抱いたものだ。
 
 「美しい書き込み」というのがある。きれいな文字、定規で引かれたような傍線、という意味ではなく、読み手の思考の跡がたどれるような書き込み。それが自分の回路とは異なっていたとしても、それ故にこそなお興味の引かれるアンダーライン。実際に、古本屋で手にした本にそんな痕跡をふと見つけて、思わず立ちつくすこともある。半面、許せないのが図書館の本に残された無神経な書き込みや、乱暴な折り皺などだ。公共の財産に対するこうした無神経な振る舞いほど、「知」とかけ離れた態度もないと思うのだが。