グローバル・アイデンティティーの矛盾なき共存は可能か?

市場依存 危機生んだ――米ハーバード大学教授 アマーティア・セン氏に聞く (2009年2月24日 朝日新聞
 
 米国発の経済危機は世界同時不況へと突入した。何が間違っていたのか。高度にグローバル化した世界の問題解決にとってこれから何が重要なのか。経済問題で倫理的側面を重視した理論を打ち立てたノーベル経済学賞受賞者、米ハーバード大学アマーティア・セン教授に聞いた。
 

 グローバル化の何が間違っていたのか。アマーティア・セン教授は、明治以来、日本を豊かな国にしてきたのも“一種のグローバル化”であると指摘し、グローバル化は多くの国にとって利益の源泉であると答える。「今の問題のほとんどはグローバル化自体よりも、ほかの事情による。政治力、所有物、経済手段などの巨大な不平等が世界に非対称性を生み出しているのだ」
 今回の世界同時不況の原因も、米国の「経済管理の誤り」が問題なのだという。新自由主義の責任を問う声は多いが、新自由主義が「市場経済に基礎を置くことを意味するだけなら、結構なこと」だ。だが市場経済体制はいくつもの仕組みによって動いており、市場はその一つに過ぎない。なのに、「市場の利用だけを考え、国家や個人の倫理観の果たす役割を否定するなら、新自由主義は人を失望させる非生産的な考え方だということになる
 
 レーガン元大統領の「政府は問題の解決策ではなく、政府こそが問題だ」という発言に対しては「(国民皆保険制度や公教育など)国家の役割は社会の基盤を作る点で非常に大きい」「金融機関の活動を抑制する上でも重要」と答え、「市場にできることがあればできないこともあるし、国家が引き受けるべきこともある。こんな基本的なことが無視されてしまった」と言う。「背景に『国家は悪』と言う非常に強い右派の政治思想もあった。理論というより衝動みたいなもので、思い込んでいる人は正当化の理屈を後から考える
 
 グローバル化した世界の問題解決には、国家だけではなくグローバルな諸制度も必要であるという。一方、国家はナショナリズムのような帰属意識に訴えて人びとを統合してきたが、「ナショナリズムは有害なだけではなく役にも立つ。暴力が宗教対立に起因するとき、ナショナリズムは宗教を超えて人びとを統合する力になる」という。
 「インドは人口の80%がヒンドゥー教徒イスラム教徒やキリスト教徒、シーク教徒などは少数派だ。それでも今、首相はシーク派だし、与党の党首はキリスト教徒だ。前任の大統領はイスラム教徒だった。これは人々が指導者たちをインド人と見るから実現した。ナショナリズムが宗教的アイデンティティーを圧倒し、人々の統合を進めたのだ。日本のナショナリズムも第2次世界大戦では問題だったが、明治維新からの発展には国民統合が欠かせなかっただろう」
 
 しかし、世界同時不況のような問題解決にはナショナリズムは役に立たず、逆に政治を保護主義に走らせる懸念があるのではないか。セン教授は、「今重要なのは国家や宗教を越えて人々を統合するグローバルなアイデンティティ」であると言う。日本人で、ロンドン在住で、ジャーナリストでというように、人はいくつものアイデンティティーを持つ。居住地への愛着、母国への愛着、宗教への愛着、文化への愛着。これらはいずれも矛盾なく共存できるというのがセン教授の考えだ。
 「争いごとは、様々なアイデンティティーの一つだけ(ナショナルアイデンティティー)を特別視し、ほかを無視するから起きる。最近の問題は宗教的アイデンティティーだ。イスラムのテロリストは宗教的帰属を強調するばかりか、ほかのアイデンティティーを否定する」
 
 だが、グローバルなアイデンティティーはだれにでもある。セン教授は、それを「他者への基本的な同情心(=人間としてのアイデンティティー)」と名づける。
 
 「理解を深めるには教育が重要だ。友人の大江健三郎氏は、日本人であると同時にグローバルな普遍的人間でもある。知識人はこの二重の役割を担わなければならないが、それはメディアについても同じだ」