ノーベル文学賞とは何か

 10月29日付朝日新聞朝刊で、今年度のノーベル文学賞の報道に関して、テレビキャスターの池上彰が「我ら素人にもわかる解説に」と題する一文を寄せている。曰く、今回受賞したバルガス=リョサに関する新聞各紙の解説があまりに専門的過ぎて「何のことか皆目」わからないという。一見して「マスコミ人」らしい批評だと感じたのは、ぼくだけだろうか。
 
 本稿で、同氏は「バルガスリョサ氏の存在は、日本ではあまり知られていません」と断定しているが、果たしてそうか。今からおよそ30年前の1979年には、当時の文学愛好者に注目された集英社『世界の文学』シリーズに『ラ・カテドラルでの対話』が登場しているし、80年代のラテンアメリカ文学ブームには、新潮や集英社から同書や『緑の家』などが文庫版で上梓されている。当時、田舎の平凡な高校生だったぼくでさえ、ジョサ(当時は「バルガス=ジョサ」という表記が多かったと思う)の作品はいくつか読んでいたし、ノーベル賞作家という枠組みで見ても、94年の大江健三郎の受賞前後から遡って、オクタビオ・パス(90年)やギュンター・グラス(99年)、高行健(00年)、ル・クレジオ(08年)らと匹敵する知名度を誇る世界的作家といっておよそ間違いはないだろう。
 
 果たして同氏が、21世紀以降のノーベル文学賞作家、ナイポールクッツェー、イェリネク、ピンター、オルハン・パムクらの作品にどの程度親しんでいるのか、ぼくは知らない。また、「ノーベル賞を取った作家の作品くらいは読んでおこう」という姿勢が微笑ましいものとも思えない。1901年の第1回受賞者、シュリ・プリュドム(ここでトルストイが受賞していたら!)から今年まで、ノーベル文学賞受賞作家は110人余を数えるが、そのすべてを指して「世界文学の最前線」と断じることができるわけでもない。よく知られているように、カフカプルーストジョイスという20世紀文学の頂点に立つ3人のいずれもがノーベル文学賞は受賞していない。同様に、ムージルは、H・ブロッホは、ゼーバルトはどうだったか? 川端と三島は、大江と安部とではどちらが世界的か?
 
 「素人への解説はむずかしいものですね」という池上氏の真意はよく分かるのだが、影響力がある人だからこそ、同氏がものすような政治批評、経済批評などとは遠く離れた「文学批評」に、余計なプレッシャーはかけないでほしい。文学とは、文字通りきわめて趣味的な、個人的な営みであり、だからこそ時として何にも代えがたい強靱な批評性を持ち得るのである。「そうだったのか!」などとは決してわかり得ない文学の「余白」にこそ、人は強く惹きつけられるのだから。
 

世界の文学〈30〉バルガス=ジョサ - ラ・カテドラルでの対話(1979年)

世界の文学〈30〉バルガス=ジョサ - ラ・カテドラルでの対話(1979年)