福田和也 『死ぬことを学ぶ』
つくづく、そう思う時があります。
死ぬのは難儀だ。
生きるのも、難儀。
だんだん、そう考える頻度が多くなってきた気がする。
よくない傾向です。
でも止まらない。 (p.180「終章 五十歳の辞世」)
日本は2038年頃をピークに、「多死社会」時代を迎えると言われている。団塊の世代が平均寿命を全うし、少子化による出生率の上昇も見込まれず、人口減が加速する。「死」が、時代の空気を横溢する時代の到来だ。
「死ぬのが怖い」
「免れ得ない運命として、死とどう対峙すればよいかわからない」
何か、先日読んだ山折哲雄の『髑髏となってもかまわない』の読後感が蘇ってきそうだ。
厄介なことに、死というものは誰にでも訪れるものであるのに、その正体というのが、一向にわからない。 (p.182)
本書は、著者の師であった江藤淳の「衝撃的な死」の体験を中核に、戦時中に東條内閣の閣僚を務め、戦後はA級戦犯として懲役刑を受けながらも、服役後は再び国会議員となり、閣僚にまで上り詰めた賀屋興宣のエピソードから和辻哲郎や西田幾多郎など知識人から政財界のフィクサー、さらには鴎外、漱石、北村透谷、有島武郎、芥川、太宰と檀一雄、三島と川端、さらには見沢知廉まで、さまざまな死にざま=生きざまを透して「死の哲学」を浮かび上がらせたエセーとなっている。